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現代版 | 教会の看板の建て方 [google マイビジネス]

いらすとや ぼくはくまです。 うさぎ先生の教会に看板はありますか? ありますよ。 会堂を建てた時に設置しました。 あ、そっちじゃなくて 地図に看板はついてますか? 地図にかんばん?? ちょっと意味が… 先生、いまの人は出かける時にGoogleで場所を調べるんですよ。 インターネット上の看板は、とてもとても大切なんです。 今回は、「Googleマップで教会の情報がちゃんと表示されるか確認しましょう」という話です。以前、私の教会の情報をGoogleマップで見たら、キリスト教会ではなく別の宗教で表示されていて驚いたことがあります。 PCでGoogleマップを見ると左側に表示されます。 スマフォアプリのGoogleマップでは下部に表示されます。 そして、これらの情報はGoogleの検索結果にも表示されます。 ここにちゃんとした情報が載っているかは大事な問題です。 この情報はGoogleマイビジネスというサービスで登録や編集ができます。登録や編集の方法を説明した動画が下にありますので参考にしてください。 Googleマイビジネスでは簡易なホームページも無料で設置できます。公式であることが(住所や電話番号確認により)Googleに保証されていますので、自分でホームページを作って、SEOがどうのこうのするより、このサービスを使った方がいいかもしれません。 PCから登録する場合はこちら スマフォから登録する場合はこちら ということで、 くまでした。

天地創造が2つある?創世記1章と2章の解釈 [Dr. Sandy Richter]

今回は「エデンの物語 旧約の民が読んだ聖書」の著者サンドラ博士の創世記1-2章講座の紹介です。

エデンの物語は神学大学院で旧約聖書神学の教科書としても使われている本です。

聖書の旧約・新約とは古い契約と新しい契約を指した言葉ですが、

  • 契約とはそもそも何なのか
  • 世界創造の時から新しい天地まで、契約を示す型がどのように変わっていったのか

  1. エデン
  2. ノアの契約
  3. アブラハムの契約
  4. モーセの契約
  5. ダビデの契約
  6. 新しい契約(イエス)
  7. 新しい天と地

に分けて体系的に説明しています。

旧約聖書の全体像を整理し、その主目的を理解するのに役に立つ本です。


そのサンドラ博士がSeedbedの7分神学講座に登場です。


Seedbed:Seven Minute Seminary - Dr. Sandy Richter
さて今回の質問は「創世記のはじめの数章について、どう取りかかればよいのか」です。

天地創造の話が書かれているわけですから、聖書学生から非常に注目されるところです。1章ではあの素晴らしく構造化された7日間が、2章では神が創造された人間をエデンの園に置かれるところが書かれています。
クリスチャンの信仰にかかせない箇所でありますが、どのように読むべきか頭を悩ませる所でもありますよね。解釈に悩みますし、どのように解釈すべきか議論されます。
どのように読み始めたらよいのでしょうか。

特に1-2章を読む時に最初にぶつかる問題は、とてもとても古いものを読んでいるということです。あまりにも古代のものなので、容易に、そして完全には特定することができないジャンルです。歴史なのでしょうか。神話でしょうか。詩でしょうか。いずれのカテゴリーでも、どこかしっくりこないような気になります。このことは解釈に不利な点です。私たちは、正確にどの種のジャンルを扱っているのか知らないのです。
しかし、私たちはこの最初の話が信仰にとって、聖書的な証にとって基礎的なものであると認識しています。

さて、2つめの問題に移りましょう。
「ジャンルを特定できないとしても、著者が何を伝えようとしているのか特定できるでしょうか」
解釈についてのあらゆる問いの中で、これがいちばん重要です。なぜなら、聖書の著者たちは聖霊の権威の下でその地位に置かれたからです。彼らには「これは聖典である、これは神の言葉である」と言う権威があったのです。
ですから、どの聖書箇所を見る時も私の支配的な問いかけは「この著者は何を私に言おうとしているのか」なのです。「私が何を知りたいか」ではなく、「この人は何を伝えようとしているのか」です。
もちろん、この人ははるか昔に亡くなっています。直接会って質問することはできません。しかし、彼が残した本文を注意深く見ることはできます。

1章と2章を見て、「この人は何を言おうとしているのか」考えてみると、最初にぶつかる壁は、この2つの章にある天地創造はとても違っているように見えることです。

最初の方は、精密な構造があります。7日間が描かれ、コーラスがありますね。「夕があり、朝があった。第x日。神は見て、それをよしとされた。」ほとんど歌のようです。
この精密な構造と共に、始まりがあり、中間があり、終りがあります。つまり、1章は精密な構造によって独立しているので、聖書のどの位置に配置したとしても意味が通じるでしょう。

2章に移ると、また話の始まりがあり、神が東に園を造り、人間の創造を経て、堕落、拒絶、呪いがあり、バベルの塔、ノアの洪水…と、実に11章の終わりに至るまで、この一連の話は続いています。この部分は独立していません。

1章で使われている単語を見ると、神は一般的な単語である「エロヒム」で呼ばれています。一方、2章では「ヤハウェ・エロヒム」という、出エジプト3章でモーセに明かされた契約上の固有名で呼ばれています。

1章では、神は「バラ(つくる)」という動詞で創造されました。この動詞は神の行為に使われる用語です。2章では、「ヤツァー(つくる)」という動詞で創造されています。この動詞は職人が壺製作や彫刻をする時に使われる用語です。

1章では人間の創造を話の最後に持っていったのに対し、2章では人間の創造は話の中に組み込まれています。

すべてを語るには7分では足りませんので、今回は1章の一週間を見てみましょう。
この一週間をどう考えたらよいでしょうか。

現代のアメリカ人として、私が最初に疑問に思うことは、「恐竜のことはどう考えたらいいのか」です。私たちは創世記を見て、化石を見つけようとします。そしてギャップ理論のような理論を創作するのです。
ギャップ理論とは、創世記1:1で神が天と地を創造した後、サタンが神から離れた天使たちをまとめて戦争を起こし、神がついに勝利してサタンを地上に追い出し、そして創世記1:2「地は形がなく、何もなかった。」と続いているはずだという仮定です。
これはちょっと。。。もし、出版した本から誰かが許可なしに段落を抜き取ってしまったら、私は嫌な思いをするだろうと思います。

他には何を考えるでしょうか。7日間の創造の“日”は地質学的年代に付随しているという地質学的年代理論があります。これは進化論、恐竜、化石といった点で議論の余地を与えます。他には、「7回の24時間」理論です。本文が「7回の24時間」を言っていますので、理解しやすい読み方です。
そして、これらのうちどれが真実かと私たちは議論をするのです。

こういったあらゆる理論がある中で、「聖書の著者はこの箇所で何をしようとしているのか」を考えたいと思います。もし私が著者に「あなたは私に何を伝えようとしているのか」と尋ねたとしたら、恐竜や化石、ギャップ理論にたどり着くでしょうか。あるいは、何かそこには他のものがあるのかもしれません。
(下へ続く)
Seedbed:Seven Minute Seminary - Dr. Sandy Richter
あらゆる科学的な質問がありますが、私は生物学者ではありません。地質学者でもありませんし、そういった質問に答える資格があるとは思いません。
しかし、私は神学者です。聖書の研究者です。「聖書の著者が何を伝えようとしているのか」という質問を尋ねられる資格はあると思います。私は、著者が残した本文に飛び込み、パターンや、メッセージ、優先事項を探すという方法をとります。

では、創世記1章を見ていきましょう。
「聖書の著者が残したパターンは何でしょうか」

明らかに安息日を冠とする7日の構造があります。これらの7つの日は互いにどのように関係しているのでしょうか。

第1日目を見ると、神は昼と夜を創造しました。
第2日目は、大空の上にある水と下にある水です。これは古代中東の人の世界観から来ています。上の水とは鳥が飛び、空気が存在する空で、下の水とは海と水路のことです。
第3日目には、地が水から分かれ、第3の生息場所が創られました。

そして、ここにパターンがあります。
第1日目、第2日目、第3日目には3つの生息場所が創られました。3つの王国といってもいいでしょう。昼と夜があり、上の空と下の海があり、乾いた地があります。ここで、このサイクルを戻って、第4日目から第6日目を見てみましょう。驚くことに、神はこの3つの生息場所それぞれに住人を創造しました。

第4日目、太陽は昼を司るように、月は夜を司るようにされました。“つかさどる”“支配する”という言葉が使われています。
第2日目と関係している第5日目は、鳥が空を満たし、魚が海を満たすようにと創造されました。
第6日目(前半)は地上の動物が創造されました。
第1日目から第3日目と第4日目から第6日目の関係が見えるでしょうか。

ロケット科学者のような特別な人でなくても、創世記1章のクライマックスは人間の創造であると分かります。人間の創造は、ここまで出てきた記述のどれよりも長い文、多くの時間、言い回し、称揚が使われています。

ここには、神のかたちに創造された種、神の地上での現れが登場しています。これは男と女とに分けられ、神のかたちに創造され、豊かに増えて地を満たし、地を従え、またそれ以前に出てきたすべてのものを支配するようにと教えられました。

しかしながら、ここは話の終わりではありません。第6日目だけでなく第7日目があるのです。
第7日目、「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。そして、神はなさっていたすべてのわざを休まれた。」とあります。古代中東の言葉の用法で休むというのは、(征服戦争を終えて)ついに平和になった帝国の王位に即位した者(王)が、休んだことから来ています。神は王位につき、祝福し、第7日目を聖めました。
このパターンを見るとき、そこには「関係性の説明」が見て取れます。

創世記1章は化石や、恐竜の議論である必要はありません。神とはどなたか、神と人間との関係はどうなのか、人間と地球との関係はどうなのかといった議論であり、それは権威の序列です。
神はすべての完全な被造物の上に立ち、神はその下に管理者、詩篇8章で言う「天使よりいくらか劣るもの」を創造し、そしてすべてのものを創造されました。神の栄光と王国のためにそれらを統治し導くのがアダムの義務でした。これが神の完全な計画でした。

ここから分かる中心的な神学的メッセージは何でしょうか。明らかですね。
  • 神が創造した。
  • 神は創造の中に組み込まれていない。
  • 神が被造物と戦う必要はない。
  • 神が仰せられると、そのようになった。
これは当時イスラエルの周りにあったどの神学とも違っていました。神は創造の外側に存在します。汎神論でも、万有内在神論でもありません。その御方が神であり、被造物は神ではありません。

人間は地上での神の反映として神のかたちに創造されました。人間自体は被造物です。物理的に動物と同じものから創られましたが、2章の記述に出てくるように、動物とは違うものとされました。神が息を吹き込み、非物質的側面によって、人間は他の動物と分けられたのです。

人間は最上位のかたちに創造され、他と区別されています。男も女も神のかたちに創造されました。男も女も等しく管理者とされました。

従って、神の理想的なデザインは、神が人間(管理者)の統治者、主人、メンターであり、人間は園のすべてのよい贈り物を任されているというものです。これが創世記1章です。これが聖書の著者の意図です。
(下に続く)
Seedbed:Seven Minute Seminary - Dr. Sandy Richter
では、2章についてはどうでしょう。2つめの天地創造の話です。

これは1章にある最初の天地創造の話と異なっています。構造や年代順配列が異なっています。これは同じ出来事を別の方法で記しているのでしょうか。それとも、2つの違う出来事を記しているのでしょうか。

私は同じ出来事を異なるレンズを通して記したものだと考えます。
1章が、「誰が担当しているのか」「神とはどなたか」「神はどのように人間と関係しているのか」「人間はどのように被造物と関係しているのか」といった問いに答えているのに対し、2章は別の問題に焦点を当てていると思います。「人間の性質とは何か」という問いです。

2章は民俗学的に、あるいは擬人化を用いて描かれているのですが、神が人間の性質を持っているように書かれています。神が園を造ったり、人を形造ったり。それらは、より手にとって分かるような話です。

これは単に同じ出来事を異なるレンズで見ているのだと思いますが、どんなレンズでしょうか。

まず古代中東の文学を説明しなければなりません。
最近、ある学者がMîs-pî文学を出版しました。Mîs-pîはメソポタミア人の儀式です。学者Micheal DickやCatherine McDowellがこの出版に関わっています。
この本によると、古代メソポタミア世界、すなわちバビロニアやアッシリアでは、偶像に命を吹き込むことが出来ると信じられていました。

メソポタミアの市民は像を礼拝していました。ただ実際には、彼らは神々を“受肉”させていたのです。私は意図的に“受肉”という言葉を使っています。
彼らは完璧で美しい芸術品を造り、(神の領域にいる)神々を現実の時空内で表現させていたのです。彼らは創造物や命を吹き込んだ像を使った、非常に精巧な儀式をしていました。

この儀式には、像を形造り、銀と金でコーティングし、宝石を埋め込む熟練の職人が関わりました。像が完成したとき、神々が“受肉”した像は、神聖な園に持っていかれます。祭司と職人はその像を園に配置し、家に帰ります。次の朝、夜明け頃に戻って来て、称揚しこう言います。「見よ、神々は我々に神を与えられた。神々は我々にセリム(神々のかたち)で神を与えられた。」
「この像が神聖な園で生まれた」というのが儀式のストーリーです。

この儀式を通して彼らは像に息を吹き込むのです。この時、彼らは目を洗い、口を洗うことで、命を与えます。それがMîs-pî(洗口)の由来です。新生児の粘液を目や口から吸い取り、きれいにするように、彼らは仮想の粘液を神々の目や口から洗い流すのです。
神が息を吹き込まれると、その神を持っていき、神殿に配置します。職人は「像に触ったことがない」と宣言しながら、儀式的に手を切り落とします。その像を造るのに必要だった道具はすべて犠牲の羊の体内に入れられます。その羊は神聖な川に流され、像が人間の手で造られたという記憶はすべて流されます。

古代人でさえ人間が神々を造るべきではないと知っていたからです。神々が人間を造るはずなのです。

この古代の文学を創世記2章に照らしてみましょう。
全能者は東の園(神聖な園と言いましょうか)をつくりました。神は御自身の手で、熟練の職人に使われた「ヤツァー」という動詞で、人間をいうかたちをつくりました。1章で学びましたが、人間は「セリム(かたち)」と呼ばれています。神は御自身のかたちを職人のように手でつくりました。そして命の息をこの被造物に吹き込みました。その後、人間を神聖な園に配置しました。その神聖な園は神と人間が住まうところ、偉大な広大無辺な神殿です。

園に川を敷き、森の中に動物を生息させました。パートナーが人間のために創られました。パートナーはソウルメイトとなり、助け手となりました。彼と人生をともに歩く者です。

さて、創世記2章は子供向けのおはなしでしょうか。あるいは、イスラエルの隣国に向けて書かれた高度な哲学評論でしょうか。

人間は神を造るべきではなく、神が人間を造るべきだと確認しました。
私たちの神は神のかたちをつくりました。神の偶像、神のセリム、神の反映。それが私たちです。命を吹き込まれ、神の園に配置され、宇宙の管理者として任命されました。

1章と2章は同じ歴史的な事実を異なる神学的なレンズで見たものです。

「エデンの物語 旧約の民が読んだ聖書」では、さらに旧約聖書全体を見ていきます。おすすめの一冊です。

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