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日本でもあり得る?ローマ帝国でのクリスチャンに対する迫害
現代においてキリスト教は世界最大の宗教です。
しかし、その歴史の初期においては、まだ世界的ではなく主にローマ帝国内に存在していました。そしてキリスト教は迫害を受けていました。
マセテスからデグネタスへの手紙には“罰せられる時、彼ら(クリスチャン)は生き返ったかのように喜ぶ。彼らはユダヤ人から激しく攻撃され、ギリシャ人から迫害されている。しかしながら、彼らを憎んでいる者たちは嫌悪している理由を特定することができない。”と記されています。
ローマ帝国内でのクリスチャンに対する迫害とはどのようなものだったのでしょうか。
ローマ帝国の支配者たちは宗教に対して寛大でした。政府や社会の平和を脅かすものでない限り禁止されることはありませんでした。
皇帝たちは民に、この平和な世界(パックス・ロマーナ)は偉大なローマ帝国の皇帝によって創られ保たれていると教えていました。
国を崇拝していたわけで、皇帝たちはローマ帝国を偉大にした神々でした。(日本で達人を“神”と呼ぶ感覚に似ていますね。)
彼らは歴代皇帝の像を建て、民にそれらを拝ませました。ほとんどの民は多神教徒でしたから、皇帝礼拝を受け入れました。
皇帝礼拝を受け入れる人々の宗教はReligio licita(合法宗教)と呼ばれました。一方で、皇帝礼拝をしない人々の宗教はReligio illicita(非合法宗教)と呼ばれました。
ユダヤ教、キリスト教は唯一の神を信じでいましたから、皇帝礼拝をしませんでした。ですから本来は非合法宗教になるのですが、実はいくつかの理由により皇帝礼拝を免除され合法宗教として受け入れられていました。
ユダヤ人たちは商業に長けていて裕福でした。彼らはひとつの民族であり、宗教リーダーをちゃんと構成するなど良く組織されていました。ユダヤ教の影響も限定的で、非ユダヤ人がユダヤ教に改宗することは非常にまれでした。
こういった理由から、ローマの統治者たちはユダヤ人たちの気を害したくなかったので、彼らのために例外を設けたのでした。
キリスト教も初期30年間くらいはユダヤ教の一派だとみなされていたので、皇帝礼拝をせずに済んでいました。
しかし、パウロが異邦人に福音を伝えるようになり、キリスト教は影響力を持って広がり始めました。
ローマ帝国のリーダーたちは徐々にユダヤ教とキリスト教の違いを理解し始めました。こうしてクリスチャンはローマの平和を脅かす者としてみなされるようになったのです。
西暦64年に皇帝ネロが初めてローマでクリスチャンを迫害しました。タシタスはネロの迫害をこう記しています。
“初めに、公に告白した者たちは逮捕され、彼らの暴露に基づいて非常に多くの者が有罪とされた。放火の罪でというのはそう大きくなく、人種への嫌悪として。彼らの処刑はゲームとされた。彼らは野生動物の皮を被せられ犬によって引き裂かれた。彼らは十字架にかけられた。夜になると、彼らは夜を照らすために可燃性の物を巻かれて火をつけられて燃やされた。ネロはこの見せ物のために自分の庭を公開した。彼自身も群衆と一緒になって戦車に乗る者の格好をしたり、戦車の上に高く立ったりした。そういった人々が有罪で最も厳しい罰を受けるに値したにしても、これには同情する。なぜなら、彼らは公共の益のためではなくひとりの男を満足させるために虐待されていると感じさせるからだ。”
クリスチャンたちは嫌悪され、投獄され、孤島に流されて、鉱山で奴隷として働く刑を課せられ、公開ショーとしてライオンに殺され、剣で処刑されました。
ローマのリーダーたちはクリスチャンがローマ帝国を脅かしていると信じ込み、キリスト教の影響を防ぐために迫害を行いました。
タトリアンは西暦197年、異邦人へ(1.2.1-3)の中で迫害がどんなものだったのか述べています。クリスチャンが逮捕され被疑者とされた時には自白のために脅迫が用いられました。もしクリスチャンが私はクリスチャンではないと宣言すれば直ちに信じられ、過去のことは全く不問とされ、クリスチャンであったことに対しては(今現在クリスチャンでないと言えば)何の罰もありませんでした。
それならば皆簡単にクリスチャンではないと言うだろうと思われるかもしれませんが、クリスチャンであると告白することは聖潔の問題であるため、迫害を物ともせず、彼らはクリスチャンであることを告白したのです。
聖霊によらなければ「イエスは主である」と告白できない、とパウロが言った時代にはこういった迫害があったわけです。
しかし、公の迫害は常時あったわけではなく、地域も限られていました。
西暦202年、皇帝セプティミウス・セウェルスはキリスト教への改宗を禁止しました。西暦235-38年、皇帝マクシミヌス・トラクスはキリスト教聖職者を処刑しました。西暦260-305年の間は統治者からの迫害がありませんでした。デキウス(251)とバレリアン(257-59)の下で全国規模の迫害がありましたが長くは続きませんでした。
コンスタンティンの時代になるまで250年の間、幾度となく大なり小なりの迫害がありましたが、総じて見ると大半の期間は全く公の迫害が見られなかったと言えます。
上記の統治者からの迫害が主なクリスチャンへの攻撃だったわけですが、それに加えてノンクリスチャンからの迫害も存在していました。
2世紀の教父アテナゴラスは“3つのことが 私たちに対してうわさされている。 無神論、人食い(Thyestean feasts)、性的不道徳(Œdipodean intercourse)”と記しています。
その理由は“彼らはいずれも嫌悪の合理的土台があるように見えるだろう不信心な宴会や禁ぜられた異性間の性行為といった行き過ぎた作り話をしている。なぜなら、彼らは恐れによって私たちを私たちの生き方から離れさせるか、統治者に彼らのもたらす攻撃の激しさによる厳しさと冷酷さを着せようと考えているから”だと述べています。
クリスチャンの行動や生き方は他の人々とは大きく異なっていました。
彼らは疑われ、悪いうわさを流されていました。
クリスチャンは無神論者だと言われました。彼らは軍隊や政府の礼拝に出席しませんでした。公の見せ物や劇場に行きませんでした。子どもたちを学校に送ることを拒否しました。彼らは「世界の崩壊が来る」と説教していました。
クリスチャンは人間の肉を食べ、人間の血を飲んでいると言われました。彼らが聖餐をしていたからです。人々はイエスが「取って食べよ、これはわたしのからだである。…みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26:26-28)と言ったと聞いていました。
クリスチャンは姦淫をしていると言われました。特に近親相姦を。彼らが兄弟愛を強調していたからです。マセテスは“彼らは共有のテーブル(食事)をもっているのだ。共有のベッドではない。”と弁明しています。
ローマの人々にとって国の平和は非常に重要でした。彼らの繁栄はパックス・ロマーナの基に成り立っていました。彼らはクリスチャンが帝国の安全を脅かしていると責めたのです。彼らは、「キリストの兵士」と自称する、教会組織として良く組織されたクリスチャンが反逆するかもしれないと恐れていました。
クリスチャンは不公平な判決、就職の不利、社会での不平等によく遭っていました。
学界でも攻撃がありました。
170年台後半、ギリシャ哲学者ケルススはキリスト教を批判する書物本物の言葉を書きました。この本は既に失われてしまいましたが、オリゲンのケルススに反対しての中に引用を見つけることができます。
ケルススはイエスの父はパンセラというローマ軍人だと書きました。“彼女(イエスの母)が妊娠した時、彼女は姦淫の罪を犯したとして、彼女が婚約していた大工から追い出され、パンセラというある兵士に子供を産んだ。”
彼はイエスは安っぽい手品師だったと言い、キリストの復活を疑問視しました。“あなたが言ったように、半狂の女と幾人かのおそらく同じシステムの妄想にかかった者たち。これまでにも多くの者の事案であったように、そう夢見ていたのか、特定の精神状態をもっていたのか、さまよって自分の願いに従って想像を身に帯びていたのか。あるいは、おそらく、この前兆をもった他人に強い影響与えようとか、そういう偽りによって彼自身のようなペテン師に機会を与えようと企んだ者だろう。”
本当の言葉は有名になり、読者に影響を与えました。オリゲンは長年に渡ってケルススに反論し続け、最終的にケルススに反対しては8巻にまで及びました。
以上のように、クリスチャンへの攻撃はいくつかの種類がありました。
主な迫害は皇帝からの迫害でした。皇帝礼拝を拒否したため反逆者と疑われたのです。もし彼らがクリスチャンであると告白すれば残酷な方法で殺されました。ただ、そういった迫害は期間や場所が限定的でした。
ノンクリスチャンからの嫌がらせもありました。彼らは作り話をし、クリスチャンが不道徳で国の安全を脅かしていると信じていました。クリスチャンは不正義、差別、不平等を耐えなければいけませんでした。
学者からの攻撃もあり、ケルススをはじめアンチクリスチャン著作が影響を与えました。
タトリアンは“彼らが私たちを攻撃する理由である犯罪は邪悪な行いにではなく、名前をもっていることにあるということが明らかになった。この問題は犯罪の名前ではなく、もっている名前の犯罪なのだ。再三、剣や絞首台、十字架、獣によって罰せられているのはその名前なのだ。”と書き残しています。
クリスチャンは“クリスチャン”であったために迫害されていたのです。
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