注目
このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。キリスト教と哲学の関係
初代教会はユダヤとギリシャという2つの文学的文化から影響を受けてきました。どちらの文化も学ぶことと教えることを大切にしていました。
古代ギリシャ人にとって哲学は非常に大切なものでした。現代の哲学は理論的で難解な知識の研究ですが、当時は「ひとつの生き方」でした。教養のある人達の宗教だったのです。哲学は伝統的な宗教を批評し再解釈して、モラルとスピリチュアルな教えを提供するものでした。
哲学の学派は信者のコミュニティを形成しました。それぞれの学派はそれぞれの信条を持ち、実践していました。
特に倫理・道徳は哲学者の主な関心事でした。彼らはユダヤ人と同様に、彼らの神学や礼拝方法、生き方、善悪、社会義務を教えました。そのため、クリスチャンは哲学者たちとその学派(宗派)を無視することはできませんでした。
初代教会は哲学の文化から影響を受けました。アレクサンドリアのクレメントは“哲学は予備的文化のものだ”と表現しました。
新約聖書の著者たちは、哲学者が道徳の奨励をする時に用いていた表現法を使いました。その記述法は知的であり、読者に訴えるものでした。
道徳の奨励には主に3つの方法が使われていました。
「プロトレピス(πρότρεψις)」は哲学的な生き方に改心するように強く促す方法で、ローマ人への手紙で使われました。
「パライネシス(παραίνεσις)」はすでに知られていることを取り上げて、良いことを褒め、悪い行いを責め、見習うべき例を示して、理想的な行動をする動機を与えるという方法で、第一テサロニケ人への手紙で使われました。
「ディアトリベ(διατριβή )」は短い対話形式からなり、例えば、間違った結論をまず述べて、強い否定(「絶対にそんなことはありません」など)でその論を却ける方法です。これはローマ人への手紙2-4:1やコリント人への手紙6:12-20などで使われました。
用語においても、霊、良心、ロゴス、美徳、自給自足、言論の自由、霊的な礼拝などのストア哲学用語が使われているところがあります。
ヨハネの福音書は、説得力を持たせるために、1章でロゴス(ことば)という用語を用いながら真理を説明しています。
初期の神学者ジャスティンも“彼らは人の形をとり、人となられ、イエス・キリストと呼ばれたロゴス(ことば)御自身によって責められた”とあるところで述べており、ロゴスという用語を使っていたことが分かります。
記述法だけでなく、時には哲学者の引用も使われました。
ストア哲学者ソロイのアラトスの詩は学校の教科書で、誰でも読んだことがあるほど有名でした。パウロは哲学者の前で演説したときに、アラトスを引用しました。(使徒17:28)
寓話的解釈は、古代神話から物理理論を見出したストア哲学者によって用いられた解釈法でした。アレクサンドリアのフィロンやユダヤ人哲学者もこの方法を使い、後にアレクサンドリアのクレメントやオリゲンといったクリスチャン神学者も用いました。
初代教会には、哲学の論法を教理の分野においても使う教父たちもいました。
ストア学派とエピクロス学派はヘレニズム時代における二大哲学学派でした。(使徒の働き17:18)
特にストア哲学は影響力がありました。ストア哲学者は唯物論を信じていました。彼らにとっては神も物質的存在でした。
パウロはこの論を明確に拒絶しました。(使徒の働き17、ローマ人への手紙1-2)
ストア哲学者は世界は基本的に火であると信じました。マセテスはこれを批判し、“あなたは信用できない哲学者たちだと見なしている人たちの虚しく愚かな教義を受け入れるのですか?火は神であると言った者たちの(教義を?)。彼ら自身がそれによって存在した、あるいは存在していくというものを神と呼んでいる(者たちの教義を?)”
ストア哲学者はそういった神観を持っていましたが、彼らの関心は主に道徳でした。彼らは人生の目標は美徳だと定義していました。彼らは自由意志を信じていました。彼らの基礎的世界観はキリスト教とは異なっていましたが、その道徳の考えは似ていました。
そのため、クリスチャンは基礎的が訂正を行った上で哲学の表現を用いるということが出来たのです。
クレメントは“たとえ哲学が役に立たないものだとしても、その論法が良い振る舞いをするのならば、それはまだ役に立つ”と言っています。
プラトン(429-347)はギリシャ哲学の父ソクラテスの後継者です。ソクラテスは書物を残さなかったので、プラトンがギリシャ哲学の起源として最も重要な人物だと言われています。
彼はイデア論を説きました。「イデアは物質でも精神でもなく、時空の外側に存在している。イデアが本物で、物質世界はイデアの劣化コピーである。イデアは善で物質世界は不完全である。」という論です。
彼が非物質的存在を強調したことにより、魂に関する考えが出てきました。体は目に見えない魂の乗り物であるという考えです。
彼の学派はプラトン哲学と呼ばれるようになり、教会に影響を与えました。
神学者ジャスティンが真理を説明した時、彼はプラトンの「悪者を懲らしめによって裁く」という考えを用いました。“プラトンも、ラダマンテュスとミノスは彼らの前に来た悪者を罰したと言っていた。私たちも同じことがなされると言う。ただし、キリストの手によって、今まさに永遠の罰を受けようという霊と再び一つにされた、同じ体にある悪者の上に。”
クレメントは包括主義者でした。彼は“偽預言者もいくつかの本当の事を話した”ので、どんな哲学の学派であっても真理の一部を含んでいて、哲学者はキリストへの道を備えているのだと信じていました。
彼はこう言っています。“もしヘレニズムの哲学者が真理の全体像を理解しておらず、主の命令を行う力にかけているとしても、真実の高貴な教えへの道を準備する。あれかこれかの方法で訓練し、人格を造り、真理を受け入れるための摂理を信じる者と整えるのだ。”
彼は他のクリスチャン弁証者同様に、2世紀の中頃まで、上流階級の宗教的必要に応えるべく、キリスト教を真の哲学として示し続けました。
ジャスティンはキリスト教は全ての哲学を完成させると言いました。“すべてのものは神によって生み出されひとつの世界に整えられたと私たちが言う時、プラトンの教義を述べているように見えるだろう。すべてのものがやがて燃えあがると私たちが言う時、ストア哲学者の教義を述べているように見えるだろう。悪者の魂が死の後も感覚を与えられて罰せられ、罰から救い出された善者は祝福された生活を送ると私たちが断言する時、詩人や哲学者と同じことを言っているように見えるだろう。ただ、私たちは「人は彼らの働きを礼拝すべきでない」ということを主張し続ける。”
そうする一方で、神学者たちは真実は信仰によって神から来るのだと証ししました。
クレメントはこう言っています。“真理はひとつである一方で、幾何学には幾何学の真理がある。音楽には音楽のそれ、正しい哲学にはヘレニズムの真理がある。しかし私たちが神の御子によって教えられたものの中にあるのは、本物の、議論の余地のない唯一の真実である。”“私たちの行いは道理にかなっていなければならない。またすべての文化に有用なものを選び取らなければならないということをさらに明確に示すものでなければならない。知恵の道は様々に真理の道へ正しく導くものだ。信仰はまさにその道である。”
弁証者たちは哲学の論法を利用しましたが、多神論は決して受け入れませんでした。彼らは、哲学の真理は何らかの方法で神から来たものだが、哲学者たちが誤解釈をしたのだと信じていました。
一方で、哲学を完全に拒絶した教父たちもいました。
神学者タトリアンは“アテネがエルサレムと一緒に何をする必要があるのか”(What has Athens to do with Jerusalem?)という有名な言葉を残しています。アテネは哲学の中心地、エルサレムは福音の出発点でしたから、哲学と神学は関係ないと言ったわけです。
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