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世界史の裏側で。第1~4公会議と神学論点
西暦313年のミラノ勅令以降、キリスト教はローマ帝国の公式宗教でした。しかし、皇帝たちは教会は国の一部であり、教会の権威は政府の下にあると考えていました。
神学的分派は国の秩序を乱すと考えられました。
やがてローマ帝国は西と東に分割され、その影響でクリスチャン神学に多様性が生まれてきました。
この多様性が論争を引き起こしました。
混乱を収めたい皇帝たちは西ローマと東ローマから教会のリーダーたちを集めて公会議を開きました。
各公会議では、信条(クリード)と教会法(カノン)がまとめられました。
国の安定という目的で皇帝たちがキリスト教を利用する中、教会は世俗化した環境と偽りの教えに悩まされました。そうした問題に取り組む中で、教会は信仰告白をしたのです。
ヘレニズム哲学の多神論は教会にとって脅威でした。
教会は全力で神の唯一性を守ろうとしました。それに伴って、一部の教師たちが御父を強調するようになり、御父とイエスがどのようにひとつであるのかについて、間違った理解をする人たちが出てきました。
養子論(Adaptionism)とサベリウス主義がその中でも影響力のあった誤りの教えです。
養子論は、父なる神が唯一の神であり、イエス・キリストは生まれつきの御子ではなく、養子として御子となったという考えです。十字架での死と復活のあとに、人間イエスがその資格を得て御子となったという主張でした。
サベリウス主義は、父なる神が唯一の神であり、イエス・キリストは父なる神自身が受肉した物質的からだであったという考えです。父なる神と御子イエスは、別々の神格ではなかったという主張でした。
神学者オリゲンはこれに弁証し、キリストは“御父とは異なる”と書いています。
養子論者であったアリウスはアレクサンドリアの教師でした。彼はアレクサンドリアから追放されたのですが、多くの人が彼の教えに従いました。
神学者や教会のリーダーたちは彼らに反論し、この議論は(ローマ帝国の)東側全体に広がっていきました。
アレクサンドリアのビショップ(教会の長)もアリウスに反対しました。
一般の人達は神学的な議論を理解できませんでしたが、あちらとこちらのサイドに分かれて言い争いました。
その結果、教会はアリウス派と反アリウス派で分裂してしまいました。
皇帝コンスタンティンは教会に帝国の統治と分裂の収束をしてもらおうと、東西から教会のリーダーたちを招集し、西暦325年5月から6月にニカイアで公会議を開かせました。議題は「どのようにして神がひとつであり、同時にひとつ以上であるのか」「御子と御父の関係はどのようなものか」でした。
このニカイア公会議はHomoousiosという結論を出します。ホモとは「同じの」、オウシウスは「本質」という意味です。御父と御子はひとつの本質でありつつ、神格において複数であるということです。
ニカイア公会議(325)の信条は、新プラトン主義流失説に反論し、“私たちはひとつの神、全能の父、すべての見えるものと見えないものの創造主を信じる。”と、またアリウスに反論し、“そして、ひとつの主、イエス・キリスト、(以下はイエス・キリストを形容する節が並ぶ)神の御子、御父から生まれ、すなわち、御父の本質から唯一もうけられた、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られたのではなく儲けられ、御父とひとつの本質で、この方から天にあるものと地にあるものすべてが存在するようになり、私たち人間と私たちの救いのために降りてこられ、受肉し、人となり、受難し、三日目に復活し、天に昇り、生きているものと死んだものを裁くために来られる、そして聖霊の内にある、(主を信じる)”と告白しました。
会議のメンバーのうち二人だけがこの信条に反対し、残りは賛成しました。
西側と反アリウス派はHomoousiosに満足しましたが、アリウス派は完全に打ち負かされたと感じました。アリウスは信条からホモオウシウスを除こうと動き出します。
彼らは皇帝コンスタンティンの支援を得ることに成功し、コンスタンティンはアリウス側に考えを改めてしまいました。
教会は再び分裂します。
ここで、アレクサンドリアの後継者で神学者たちのリーダーであったアタナシウスが立ち上がります。
彼は、もし御子と聖霊が造られた存在であるならば、人は神と接触することが出来ないだろうと言いました。御子の受肉は神性の劣化ではありません。
一方でアリウス主義者は教会の権威を嫌う人々の賛同を得ました。
第2回公会議が西暦381年にコンスタンティノープルで開かれました。コンスタンティノープル公会議(381)はニカイア公会議の決定を確認し全会一致で支持しました。
教会はニカイア信条に使徒信条からの要素を加える必要があると感じていました。コンスタンティノープル信条は、“私たちはひとつの神、全能の父、天と地のすべての見えるものと見えないものの創造主を信じる。そして、ひとつの主、イエス・キリスト、…聖霊と処女マリヤによって受肉し、人となり、ポンテオ・ピラトの下で私たちのために十字架にかけられた(主を信じる)。彼は受難し、葬られ、聖書によると彼は三日目に復活し、天に昇り、御父の右手に座っておられる…”(橙色は使徒信条からの挿入部)と告白しました。
また、裁きの日の後にキリストの治世が続くことを否定したアンシラのマーセルに反対し、“その王国は終わりがない”が加えられ、聖霊が単なる造られた存在であったと教えたマケドニア派とマラトニア派に反対し、聖霊に関する三段落目が、“主であり、命の与え主、御父から来られ、御父と御子と共に礼拝され栄光を帰され、預言者によって語った(方)”と拡張されました。
70年以上の議論を経て、教会はイエス・キリストが御父とホモオウシウス(同じ本質)の神であると結論を出しました。
すると今度は、キリストの人間性と神性の関係についての議論が起こりました。
当時は主に3つの意見がありました。
神学者タトリアンをはじめとする西側は、完全な神性と完全な人間性がひとりのイエス・キリストのうちに混じり合うことなくひとつにされていた、と主張しました。
アンテオケのクリスチャンは、イエス・キリストの完全な神性を認めながらも、人間性を強調していました。
アレクサンドリアのクリスチャンは神性を強調しました。神性の強調があまりにも優勢で、人間性が疎かにされがちでした。彼らはマリアを“神の母”と呼ぶようになりました。
西暦428年、アンテオケの説教者であったネストリウスがコンスタンティノープルの教会の長になりました。彼は説教の中でアレクサンドリアの立場を批判しました。アレクサンドリアのクリスチャンはこれに反撃しました。
両サイドはローマの法王にそれぞれ訴えました。
法王は、神学的な考えよりも政治的な理由で、アレクサンドリアに賛成することを選びました。
西暦431年、第3回目の公会議がエペソで招集されました。
ところが、アレクサンドリアの代表団がネストリウスの代表団より早く到着し、彼らが到着する前にエペソ公会議(431)を始めて、アレクサンドリアの立場を承認してしまいました。
エペソ教会法(カノン)4にはこう書かれています。“もし聖職者が堕ちて、公にあるいは密かにネストリウスやセレスティウスの教義をあえて支持しようとするなら、こういう者たちは罷免されるべきだと聖なる会議によって宣言された。”
その後、ネストリウス側の代表団が到着し、別の公会議をしましたが、この公会議は違法とされてしまいました。
その後も、エウテュケスとフラビアンによって議論が続けられました。
エウテュケスは、キリストの神性と人間性は受肉の時にひとつの性質に結合されたと教えました。
フラビアンはエウテュケスを非難します。
二人は法王レオ1世に訴えました。レオ1世は返答として、フラビアンに宛てた手紙(Tome)を書きました。
教会博士とも呼ばれるレオは、神学に精通していて、神学者タトリアンのキリスト論を支持していました。
西暦451年にローマ皇帝が代わりました。新しい皇帝は法王レオを支持しました。
皇帝は第4回公会議をカルケドンに招集しました。カルケドン公会議(451)はレオがTomeに書いた西側の立場を採りました。
キリストの神性と人間性の統一は4つの単語によって表現されました。混じっていない(unmixed)、変わることのない(unchanged)、分かれていない(undivided)、引き離せない(inseparable)です。
カルケドン信条は通常の三位一体論形式ではありませんでしたが、ニカイア信条に即していました。
カルケドン信条は、“ひとつで同じキリスト、御子、主、唯一儲けられた(方)、混じらず、変わらず、分かれず、離れない2つの性質で認められる(方)。性質の区別は統一によって決して取り去られることがなく、むしろそれぞれの性質が保たれ、2つの神格に分けられてではなく、ひとりの同じ御子、唯一儲けられた方、ことばである神、主イエス・キリスト、ひとつの神格、ひとつの存在の中に一致している。預言者たちは初めから彼について知らせてきた。主イエス・キリスト御自身が私たちに教えられた。聖なる教父たちの信条が私たちに継承されてきた。”と告白しました。
ローマ帝国の国教になる前はクリスチャンは迫害を受けていたのですが、国教になってからはクリスチャンでなければ社会的に不利益を被るとなってしまいました。
水と聖霊によって新しく生まれなければ神の国を見ることはできない(ヨハネの福音書3章)のですが、御子を信じないで「クリスチャン」になる人たちが出る土壌ができてしまったのでした。
それに加え、一般のクリスチャンは非常に高価な聖書を所有することはできませんでしたので、間違った教えが入ってきたとき識別することは容易ではありませんでした。神学的に未熟な一般の人達によって論争は炎上します。
皇帝は国政のために宗教を利用しようと考えていました。上記の公会議は、炎上の沈静化を求めた皇帝によって開かれました。
しかし、皇帝や政治的思惑を持つ者が右往左往していた中、教父たちは公然と弁証し、最終的に三位一体の神観は守られました。
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