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現代版 | 教会の看板の建て方 [google マイビジネス]

いらすとや ぼくはくまです。 うさぎ先生の教会に看板はありますか? ありますよ。 会堂を建てた時に設置しました。 あ、そっちじゃなくて 地図に看板はついてますか? 地図にかんばん?? ちょっと意味が… 先生、いまの人は出かける時にGoogleで場所を調べるんですよ。 インターネット上の看板は、とてもとても大切なんです。 今回は、「Googleマップで教会の情報がちゃんと表示されるか確認しましょう」という話です。以前、私の教会の情報をGoogleマップで見たら、キリスト教会ではなく別の宗教で表示されていて驚いたことがあります。 PCでGoogleマップを見ると左側に表示されます。 スマフォアプリのGoogleマップでは下部に表示されます。 そして、これらの情報はGoogleの検索結果にも表示されます。 ここにちゃんとした情報が載っているかは大事な問題です。 この情報はGoogleマイビジネスというサービスで登録や編集ができます。登録や編集の方法を説明した動画が下にありますので参考にしてください。 Googleマイビジネスでは簡易なホームページも無料で設置できます。公式であることが(住所や電話番号確認により)Googleに保証されていますので、自分でホームページを作って、SEOがどうのこうのするより、このサービスを使った方がいいかもしれません。 PCから登録する場合はこちら スマフォから登録する場合はこちら ということで、 くまでした。

初代教会の礼拝ってどんなの?ローマ国教化前後のクリスチャンの礼拝

最初のクリスチャンはユダヤ人でした。彼らは慣れ親しんだユダヤ人の伝統にしたがっていました。しかし、異邦人がクリスチャンになるようになり、やがてクリスチャンとユダヤ教徒は互いに別れていきました。そして、西暦311年にキリスト教はローマ帝国の公認宗教となります。

こうした状況は礼拝形式にも影響していきました。初代教会はどのように礼拝をしていたのでしょうか。


最初期の教会はユダヤ教から改宗した人と異教徒から改宗した人とでなっていました。彼らは、礼拝はエルサレムの宮やシナゴーグで行うものだと考えていました。

ユダヤ人クリスチャンは宮やシナゴーグで礼拝をしていました。しかし、10年も経たない内に迫害によって追い出されてしまいました。

それでも、彼らは再臨が間近だと思っていたので、集会所を建設しようとはしませんでした。

彼らはクリスチャンの家や借家で集まるようになります。ひとつの家は9人ほど入れればいいくらいの広さでした。

これは、「神殿・宮(あるいはシナゴーグ)で礼拝すべき」と考えてきた元異教徒・ユダヤ教徒にとって革命的な変化でした。

時に、クリスチャンが「教会」に行かないので、ローマ人たちに不信心なやつらだと誤解されることもありました。クリスチャンにとって、教会とは信徒の集まりであり、建物ではなかったのです。

2世紀になると、教会は成長をし、より大きな家が必要になってきました。ドゥラ・エウロポスのユーフラテス川沿いに初めて集会所が建てられました。65-75名が入ることが出来る大きさでした。しかし、256年に焼かれて壊されてしまいました。

キリスト教が公認となったあと、状況は一変しました。

皇帝コンスタンティンと彼の母エレナは新しく豪華なバシリカ式の教会堂をいくつも建てました。そうした建物は人目を引き、印象的でした。


初めからクリスチャンは、キリストの復活を祝い、覚えるために、日曜日に集まっていました。後に、コンスタンティンがこれを公認しました。

礼拝の最初に、互いに握手したり、あいさつしたりする教会が現代にはありますが、新約聖書の時代は、聖なるキスが礼拝の中で交わされていました。

古代地中海地域の文化では、家族は挨拶としてキスをする習慣があったのです。クリスチャンは神の家族として、親しい交わりを持っていましたので、家族同様に聖なるキスを挨拶として行ったのです。パウロも“聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい”と薦めています。(ローマ16:16)

この聖なるキスは、洗礼を受けたクリスチャンだけが出席できた礼拝の第2部の中の儀式として行われました。当初はこの聖なるキスはどちらの性別が相手であってもかわされていましたが、後になって、同性同士だけに限定されるようになりました。


初期のクリスチャンは、聖霊を与えられて、終末の力を経験したと信じていました。彼らは喜びにあふれた人々でした。

コリント教会のように、一部のクリスチャンは改宗前に行っていた異教の礼拝形式をもとにして、恍惚状態で礼拝をしました。また、モンタヌス派のクリスチャンも感情的な経験をともなった礼拝を行いました。

この運動は広がりましたが、結局は、教会に非難されてしまいました。礼拝中の感情的な経験は、この運動のあと、19世紀のペンテコステ運動が起こるまで、重要視されませんでした。


旧約聖書の時代から、ユダヤ人は詩篇を単調なメロディーにあわせて詠唱していました。初代教会はこの形式を続けました。

エペソ教会は“詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。”と薦められています。(エペソ5:19)

新約聖書ができる前は、福音書と使徒が書いた手紙も詠唱されていました。ピリピ人への手紙2:6-11は「ケノーシス賛美歌」として礼拝内で歌われていたことが知られています。

初代教会は信仰告白も詠唱していました。最初の使徒信条は暗記をするために歌われました。

「アーメン」や「ハレルヤ」は会衆の礼拝参加として歌われました。

迫害下にあったために礼拝音楽は控えられていました。

コンスタンティンによる公認後は、メロディーが複雑化し、専門的になっていきました。4世紀の終わり頃、アンブロジウスが旧約聖書時代の神殿で行われていた交唱を再導入しました。


ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝儀式は、賛美、嘆願、感謝からなる18の祈りから始まりました。使徒たちは礼拝でのこの祈りに慣れていて、初代教会はこの儀式的祈りを祈りました。

ジャスティンは祈りについて、“私たちが与えられたすべてのことへの感謝と祈りによって力の限り賛美するお方は血の流れや、献酒、香料を必要としない、と私たちは教えられてきた。”と言っています。

また、クリスチャンは主の祈りを祈りました。祈りは礼拝式の中でさまざまなパートの合間に行われました。


シナゴーグがまだなかった時代、礼拝は宮での儀式と生贄によって行われていました。しかし、イスラエルはバビロンの捕囚となってしまい、各地にシナゴーグを建てました。礼拝の焦点は、神様がしてくださったことを思い出すことが出来るように、モーセ五書の朗読と学びへと移りました。

シナゴーグでの典型的な礼拝は申命記6:4-9(シェーマ)から始まり、18の祈り、聖書と続きました。詩篇を歌い、モーセ五書を読みました。

初代教会はこの伝統を礼拝の第1部で行いました。

家の教会での礼拝は2つの部からなっていました。第1部はみことばの礼拝、第2部は食事の礼拝です。

第1部はシナゴーグでの形式にならいました。祈り、賛美歌詠唱、詩篇詠唱、信条と誓いの朗読を行いました。その後に、読み手が前に進み出て、70人訳聖書、使徒たちの回顧録、パウロの著作他を朗読しました。そして、その家のリーダーが聖書を説明し、生活に適応しました。

第2部、食事の礼拝は「上の部屋での礼拝(upper room worship)」とも呼ばれていて、会食、交わり、賛美歌、聖餐式が行われました。この2部には洗礼をうけたクリスチャンだけが参加することができました。

聖書の読み手は任命された人で、ひとりにつきひとつの書が担当として割り当てられていました。読み手は担当の書をマスターし、礼拝の中で劇のように読み上げました。

食事の礼拝では愛餐と聖餐をもちました。始まりの頃は愛餐と聖餐の違いはあまりはっきりとしていませんでした。最後の晩餐では、イエスがパンを取って、一通りみなが食事をし、“夕食の後、坏をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。…」”とコリント人への手紙第一11:25に書かれています。

後になって、求道者(catechumen)を教える必要から、上記のように礼拝が2部制に分けられました。クレメントは、“彼は私たちを無知な異邦人へ罪の赦しのため洗礼を授けるためにおくられ、まず彼らを教えるようにと命令された。”と書いています。

キリスト教が公認されてからは、すべての人がクリスチャンとなったので、礼拝途中で抜けることはなくなりました。大勢の人が礼拝に出席するようになったために、愛餐は礼拝から除かれるようになりました。


初期の礼拝は交わりと共同の宗教生活が含まれており、有意義なものでした。シンプルであまり印象的ではありませんでしたが、信徒の宗教的、個人的、また社会的な必要にあっていました。

改宗者の数はどんどん増えていき、ついにはローマ帝国の国教となります。

コンスタンティンによる公認の後は、信仰の表現は内側だけではなく、見栄えにも及ぶようになりました。

教会は教会暦を作ります。教会暦は神様の救いの3つのイベント(クリスマス、イースター、ペンテコステ)を中心に展開されていきました。

クリスチャンはキリストとともに御父へとりなしをしてくれる者として聖人に祈りを捧げるようになります。

聖人のリストは年を追うごとに長くなっていきました。

4世紀にマリアは最も偉大な聖人となりました。5世紀にはマリアは生まれたときから罪がなかったと宣言されました。人々はキリストより、マリアに向かって祈り始めました。

各聖人は記念の日を割り当てられました。中でも偉大な聖人たちの日は祭りで祝われました。

聖人と関係する土地は「聖地」となり、聖地巡りは救いときよめに関わると信じられるようになりました。


BIBLIOGRAPHY
  • Boer, Harry R. A Short History of the Early Church. Grand Rapids: Eerdmans, 1988.
  • Clement. "Homily 17." NEW ADVENT. Accessed November 28, 2016. http://www.newadvent.org/fathers/080817.htm.
  • Drury, Keith W. The Wonder of Worship: Why We Worship the Way We Do. Indianapolis, Ind: Wesleyan Pub. House, 2002.
  • Hurtado, Larry W. At the Origins of Christian Worship: The Context and Character of Earliest Christian Devotion. Grand Rapids, Mich: W.B. Eerdmans Pub. Co, 2000.
  • Justin. "The First Apology." NEW ADVENT. Accessed November 28, 2016. http://www.newadvent.org/fathers/0126.htm.
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